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2015年03月31日 春彼岸会法要

春本番といったところでしょうか?随分と暖かくなり桜の花も満開間近となりましたね。


さて3月22日、本坊にてご門徒様のご尽力もあり彼岸会法要を無事に執り行わさせていただきました。

このご仏縁のもと皆様方お変わりなくご参拝されたこと大変うれしく思います。


丁度外に出てみるとお寺の参道に珍しいお客様が・・・

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ニホンカモシカも参拝し皆様とともにご仏縁を頂けたことでしょうね。



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これからも末永く専行寺の護持発展の為ともに盛り立てていきましょう。

この度はお疲れ様でした。有難うございました。






2015年03月10日 生命のつながり

今日は急に寒くなりましたが、梅や桃の花も咲き、周りは少しずつ春の訪れを感じるようになりましたね。

さて新しき生命が多く誕生するこの季節に先日、前坊守である私の母が書き記した文がとても心に残りましたので

皆様にもご紹介させていただきたいと思います。

 

 生も死も永遠の命の一時

 

(その日の夕暮れ、金色の光の中を、ダニエルは枝を離れて行きました)

「さよならフレディ」

ダニエルは満足そうな微笑を浮かべ、ゆっくり静かに居なくなりました。

次の朝は雪でした。

 この物語は森繁久弥氏が朗読する 「葉っぱのフレディ命の旅」 という絵本です。     

「明け方、フレディは迎えに来た風に乗って枝を離れました。

痛くもなく、怖くありませんでした。フレディは空中に暫く舞って、それからそっと

地面に降りてゆきました。その時初めてフレディは木の全体を見ました」

 

それはアメリカの著名な哲学者、レオ・バスカーリア博士が、

「死別の悲しみに直面した子供たちと、死について的確な説明ができない大人たち、

死に無縁のように青春を謳歌している若者達」のために書いた生涯たった一冊の絵本の中の一説です。

 

春に生まれ沢山の葉っぱのお友達と夏を楽しく過ごし、子供やお年寄りのために

涼しい木陰を作り、兄弟分のダニエルからいろいろなことを教えて貰ったりして、

フレディはやがて秋を迎え、赤や黄にと美しく紅葉し、そして木枯らしと共に地上に舞い降りました。

 親木から離れて、初めて木全体を見ることができたフレディは、ダニエルから聞いていた命という言葉を思い出します。

(いのちというのは、永遠に生きているのだということでした。引越し先はフワフワして

居心地の良い所だったのです。フレディは目を閉じ眠りに入りました)

 

やがて春になり雪が解けると、枯れ葉のフレディは水に溶け、新しい葉を生みだす、木を育てる力となってゆきました。

 木の葉の物語は、大自然の設計図は寸分の狂いもなく、いのちを変化させ続けているのです。

また春が巡ってきました。

 

アメリカの哲学者の語る死生観が仏教の死生観そのものであることに驚くと同時に、

宗教的言葉の匂いを少しも持たずに一枚の葉っぱの「いのちの旅」という形に象徴して、

人の命の姿やありようをみごとに語っていることに、深い感動を覚えたことでした。    !cid_image002_jpg@01D0597E.jpg

   

                                                              

 わかりやすい例として、まど・みちおさんの、

      「水は歌います 川を走りながら」という詩を紹介しましょう。

 

        海である日のビョウビョウを   海だった日のビョウビョウを

        雲になる日のユウユウを     雲になった日のユウユウを

        雨になる日のザンザカを     雨だった日のザンザカを

        虹になる日のヤッホーを     虹だった日のヤッホーを

        雪や氷になる日のコンコンを   雪や氷だった日のコンコンを

  

過去形、未来形、過去形,未来形と織り成しながら、一つの水が縁に従って、

同じ水でも川の姿をとる時、雨の姿をとる時と、色々有ります。

条件が変われば気体の姿になる。気体の水分もさまざまな雲の姿に変わる。

時には美しい虹となったり、条件次第では、一転して雪や氷という固体の姿になります。

  

しかし無くなってしまったわけではありません。

雲は雨に、あるいは雪や氷にと、縁に従って無限に変わりつつ永遠の命を生き続けているのです。

この詩の雲や雨や雪のところに、私やあなたの命を置き換えてみてください。

私という具体的な姿をいただき、あなたやあなたのお母さんという具体的な姿をいただいた

限り、必ず終わる日が来るのは当然な事です。

生も死も一時の位なのです。

   詩の最後に

        水は歌います  川を走りながら

        川である今のドンドコを

        水である命の永遠を

の言葉で結んでおられます。すごい結びの一句ですね。

永遠の水の命、いま私は川という姿で頂いている。その川のドンドコに命をかける。

雨の配役になったら雨のザンザカに命をかける。それがそのまま永遠の水の命を、

生きることになるのだというのです。

 

道元禅師はこれを「生も一時の()、死も一時の()

とおっしゃいました。水という永遠の命の中にあって、川という位の時、雲という

位の時が、雪という位の時があるように、永遠の仏の命の、生という位の時、

老・病・死という位の時ということなのです。         !cid_image004_jpg@01D0597E.jpg

私たちは、みんな生死(しょうじ)なき仏の命を生死する。そこにあって、いずれの配役も、

老いも、病も、死も、一時の位であって、仏の命からはずれっこない命の一歩として、

大切にいとおしみながら歩んでゆくということではないでしょうか。

人生を大切に生きるという生き方も、これよりほかにないでしょう。

 

 「命いただきます!」と感謝の合掌を

昔から日本の家庭では、お米一粒を大切にすることを、(きび)しく(しつけ)て参りました。

それが今は飽食(ほうしょく)の時代となり、ご飯粒を一杯つけたまま洗い流し、お惣菜(そうざい)も残したまま捨てる事に何のためらいもない。

まして罪悪感など全くなくなってしまってことは、残念でなりません。

 

    「人間は生きるために、鶏も殺さなくちゃいけないし、豚も殺さなければいけない。

    生きるって事は、ずい分迷惑をかけることなんだなあ」

    「自分で自分のことを全部できたら、人は一人ぼっちになってしまう。

    他人に迷惑をかけるということは、その人とつながりを持つことなんだ。

    他人の世話をするってことは、その人に愛を持つことなんだ。生きるって事は、

    沢山の生命のつながりを持つことなんだ」

           これはある農地実験所を見学した小学生の作文の一節です。

 

 今日一日生かさせていただくために、どれだけの命を頂いている事でしょう。

数え切れないほどのお米の命、味噌や豆腐や納豆の原料となった大豆の命、

豚や牛や魚や野菜たちの限りない命の犠牲の上に、私の今一時の命があらしめられて

いることを思う時、生きる姿勢を正さずにはおれなくなります。

 私のための命(ささ)げてくれたものたちに、心から、「命いただきます」の感謝の合掌を、

奉げなければおれなくなります。

それがお食事の時の、「いただきます」の言葉の心ではないでしょうか。

                

          悲しみはあした花咲くより抜粋  青山俊董僧尼

 

              朝に礼拝、夕べに感謝ですね。!cid_image006_jpg@01D0597E.jpg

 

 

 

 

 

                                           

あ と が き

 

この頃の気候も三寒四温で、寒さと暖かさの繰り返しで、この状態を過ぎなければ、

春は近いようでまだまだ先のようですね。自宅近くの長池の辺を散歩していると梅の

花がちらほら咲きだしたのに気が付きます。

 

やはり春は手の届く所に来ているようで、木々の新芽もほのかに春を待っている

ように色づいてきています。小鳥たちも暖かい日には枝を飛び交っている姿がたまに

見受けられます。確かに春はそこまで来て居るようです暖かい日差しにあうと、

ほのぼのと心が温かく和みます。

今回は「我執(がしゅう)」についてお話しましょう。

「嘘をつくと地獄の閻魔さんに舌をぬかれる」と、子供のころ母から戒められました。

地獄については芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」の話が有名です。

 

「血の地獄」に一本の銀色の糸が下がります。極楽の蓮池の蜘蛛の糸です。罪人は

生前に蜘蛛を助けた事があり、それを哀れんでお釈迦さまが垂らした蜘蛛の糸です。

罪人はその糸に昇っていきました。

 

途中で下を見ると次々に他の罪人もよじ昇ってきていました。このままでは糸が

切れると考えた罪人は下に向って「降りろ、降りろ」と叫びました。

その瞬間に糸は切れてしまいました。

「自分だけが助かればよい」と無慈悲な心が仇になったのです。

 

 私たちの心の底には「自分さえ良ければよい」との我執の煩悩が渦巻いています。

しかし仏さまの慈悲は違います。自分のこととして受け止められ、命のあるもの

すべてを救いたいと強く願っておられます。

 

 慈悲の光は太陽のように何時でも何処でも、誰にでも、平等に照らされています。

浄土真宗では救ってくださる仏の慈悲に対して報恩感謝の念仏をするのです。

                              

寒暖の差がはげしいこの頃です、

お体に気をつけて下さいね。

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2015年03月06日 平成27年度 春・彼岸会法要のお知らせ

三月に入りました。

ここ数日温かい日々が続いております。

街並みを歩く人々の服装や多くの木々にこれから咲かんとする蕾など見ましても随分春の装いが見受けられるようになりました。


さて今年も春・彼岸会法要の時期が近づいてまいりましたのでお知らせ致します。

日時   3月22日(日)   10時半~

場所   専行寺本坊  本堂にて

 


「彼岸会法要」とはいま、まさに私が生きる世界「此岸」(しがん)が迷いの岸であったことを見極め、人生の究極の目標を彼岸(お浄土)と思い定め、彼岸へもっと早く、もっとも確かに渡る道を聞くことであります。

つまりは仏法の光に照らし出された私の本当の姿を気づかせていただく「自省・聞法の日」なのです。

光なくしては、ものは見えません。私自身の本当の姿とは、仏法の光に照らされてはじめてハッキリとみることができるのです。

この彼岸会法要を「自省の日」「聞法の日」と受け止め、阿弥陀様の教えを通して有意義なお彼岸のご縁となればと念じております。

 



皆様どうぞご参拝くださいませ。 お待ちしております。